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あれこれと [原発、津波被災地へ]

どこかで東日本大震災を「亡災」と書いているところがあった。
まさしく徐々にあの忌まわしい記憶が人々の記憶から薄れていくような気がしている。
でも、ご覧いただいたようにまだ仮設住宅は多く、町は盛土だけのところが多い。
今に あれから〇年という企画だけでメディアもその後を追わなくなるかもしれない
戦争を知らない私には、あれはまさしく戦禍以上に思う。
民宿のおばさんが言う
1年目は必死だった。2年目は少し希望を持ち始めた。3年目になると疲れてきた。という
だから、復興は加速ししないといけないと思う。
また復興の為の工事も桁外れに多い。地元の方は無駄なものもあるという。
大きなお金が動いている。
利権がからみ誰かが得をするというような事にならないよう、
しっかり目を光らせなければならないと思う。

アルバムの中に 釜石の中学生の写真があるが
なんと被害甚大だった釜石で 子供は99.8パーセント助かったという。
いわゆる「津軽てんでんこ」を守ったのだ。
釜石の奇跡と言われているが、当の子供たちは奇跡じゃないよ。
実績だよという。
これからも、その教えを守ってほしい。

私がお声をかけた方は すべて色々と話してくれた。
自分の体験を知らない方に伝えたい。そう感じた。
被災者に話を聞くという事は 本当に大事だと思う。
思い出したくないという方もいるかもしれないが
大変だったんだよと、伝えたい思いの方が強いと思う。
時間の制約があれば、それもできないが、今回は気ままな旅。
先を急ぐというのではないので、なるべくお声掛けした。
一人旅を寂しくはないか?と思う方もいると思うが
車中以外は、誰かと話しているし、宿に着けば まとめをし
パタンキュー
寂しいなんて まるで感じなかった。

失敗談
三陸町の泊漁港にある民宿では 朝、話が弾んで
鍵を返すのを忘れてしまった。気がついた北山崎の民宿近くに郵便局はない。
翌日、戻った宮古の郵便局から鍵を返却した。
電話したらおばさん、笑っていたっけ

帰りの4号線は道の駅がない。
スマホで見たら 登米の道の駅があり 近くにあるように勘違いした。
ナビを合わせるといきなり畑や田んぼの中の狭い道を指示する
川の土手も走る。
到着時間は50分後。ええっそんなに遠いの?と思ったが
もうないのだから仕方ない。
金曜日は24時間営業中となっていた。
真っ暗で心細く、人も車もめったに通らない。
ホント、この道?と思ったが ナビ助のいう事には従わなければならない。
着いたらまずはビール、そして食堂で土地の定食なんか食べたいなあ
おなかもすいたし、それだけを頼りに暗くて狭い曲がりくねった道を走った。
いきなり車の走る道に出た。そして道の駅はあった。7時50分到着
でも、真っ暗。
ようやくトイレを探したが、ここだけ明かりがついている
24時間営業とはトイレの事だったのだ。ガーン(-_-;)
道の駅は周りは何もない。本当に何もないところに建っている。
お腹がすいて寝るに寝れない。
でも、どうやら数時間寝て、朝の光で目覚めた。
道の駅の素泊まりは、車10台くらいいたと思う。
この失敗さえなかったら(食糧調達) また車中泊をしたいと思っている。
ヨガマットがあれば良かった。背中が痛かったのだ


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